依正不二によって成仏する主体の周辺の存在についてですが、その際に本人の意志や責任などはどこへ行ってしまうのでしょう。
我々が人間である限りは当然の疑問です。しかし、仏教は本来、世界における「存在」も主体の属性も認めません。いわゆる「無我」の立場なので、本人の意志にこだわること自体が執着であり、煩悩のなせる業なのだと考えるのです。かりそめに過ぎない自己の存在は、真理の世界の前に解消されてしまいます。では、行為の集積である「業」はどう理解するのか、それは自我を認めたことにならないのか、というのが難しいところではあるのですが。