本覚論は現世の肯定と仰っていましたが、それはキリスト教が「この世は神の国である」と唱えることと共通するのでしょうか。

キリスト教のいい方は、やはり旧約・新約を前提として、約束された救済から現世をみるとそれはもはや神の国であるということでしょう。それは一見現実の肯定にみえて、やはり現実の向こう側に真理を設定した世界観なのです。一方の本覚論は、何の前提もなく現実を肯定し、崇拝してゆきますので、やはり異質なものだと思います。ただし、一口に現実肯定というと「唯々諾々と世界を受け容れるだけの発展性のない考え方」「諦めの思想」と思われがちですが、実は現実をありのままに認めて真理であると自覚するのは、人間にとって極めて難しいことなのです(現状に不満ばかり持っている我々には、決して到達できない境地でもあります)。この点、そもそも「諦め」という言葉が、ものごとを「あきらかにみる」という仏教語に由来していることと関連するのかも知れません。