古代の人々は、自然への恐れをどのようにして失っていったのでしょうか? そもそも神話を作るには、作る人が自然への恐れの念が少なくないと作れないと思うのですが。そのきっかけは、単に開発のためだけでない気がします。 / 神殺しで自然の神を殺してしまった後、人々は山や河を誰が守っていると考えたのでしょう。

自然信仰にも、表層部分では長い歴史のなかで大きな変転があります。例えば、和歌山県南部の海岸にはかつてイザナミ墓所と考えられた窟がありましたが、平安時代になると熊野社の分身である王子神を祀る場所となり、また仏教の弥勒信仰に基づいた経典埋納の地ともなっていました。聖なる場所という記憶は受け継がれているものの、神の名などの固有名詞は次々と変わってゆくこともあるのです。神殺しは極めて対処療法的・一時的な措置ですから、それによって自然神がまったく死滅してしまうということはありません。開発が成功することにより、確かに自然神の地位は低下してゆきますが、時代が降れば再び活性化することもありうるのです。日本列島に暮らす人々が、自然への畏怖をまったく失ってしまうということは、これまでの歴史のなかで一度もありませんでした。現代でもアンケート調査を実施すると、日本では、7割近くの人が自然に何らかの神聖性を認めるようです(これはいわゆる先進国のなかではトップクラスの数字です)。ただし、そのあたりの神の興廃が、かなり人間の需要に基づき恣意的に行われるようになる、そうした傾向は強くなってゆくでしょう。