史料17では、自然神も天皇の命令に逆らえないことを強調していますが、史料18では逆に天皇に託宣をしています。両者で神の位置づけが違っているのはなぜなのでしょう。 / 史料18で天皇の夢に出てきたのは河伯でしょうか、それとももっと高位の神ですか。

講義でも話しましたが、私たちが現在みることのできる形態としては、史料18の方が古態を留めているからでしょう。しかし、それゆえにいろいろな矛盾も孕まれてしまっています。天皇の夢に出てきたのがいかなる神なのかは議論のあるところですが、下段に説明した瓢箪の意味(元来は神の意志を推測するための道具であった)などを考えれば、もともとは河伯それ自身であったとみて間違いないでしょう。司馬遷の『史記』には、黄帝黄河の氾濫を鎮めるために河伯へ供物を捧げる記事がある一方で、王権より派遣された役人が河の神を退治する伝承や、人身供犠の旧弊を廃止するエピソードなどが載せられています。史料18もそれらに基づき、神の託宣を得て災害を鎮める物語を、神を殺害し開発を達成する物語へ改変してしまったものでしょう。