聖徳太子の存在に対して議論があるとのことですが、なぜ現在、「彼は存在していなかった」とする主張が台頭してきたのでしょうか。

聖徳太子の業績に対する史料批判は昔からあったのですが、現在の傾向は中部大学の大山誠一氏の研究が発端となっています。大山氏の論点は多岐にわたりますが、その基盤は、太子の業績を伝える『日本書紀』と「推古朝遺文」(法隆寺系統の仏像銘文等々)の徹底的な史料批判にあります。例えば有名な十七条憲法は、『礼記』『詩経』『論語』『孝経』『文選』などの漢籍を駆使して書かれていますが、当時の倭国はまだ中国的礼制を導入し始めたばかりで、推古朝のものとしては高度すぎ大きな矛盾を生じます。また、有名な「天寿国繍帳」や「金銅釈迦三尊像造像銘」をはじめとする「推古朝遺文」も、文章表現を子細に検討すると七世紀末〜八世紀にかけてしか使用されない言葉が随所にみられ、太子と同時代のものと認めることができない。すなわち、太子の実在を語る史料には、何一つ確実なものがないということになるのです。太子は、天皇制に儒教・仏教的価値観における至高の聖人を組み入れ、高度な中国的文化を持つ国家としての日本を演出するために創出された、というのが大山氏の大筋の考え方です。これらの議論については、当初、あまり噛み合わない感情的反発が多かったのですが、近年は仏教学などの史料解析(石井公成氏など)がさらに進み、大山説を論理的に批判する傾向も出て来ています。『書紀』の描くとおりの聖人=厩戸王が実在しなかったのは当然ですが、その具体的姿をどこまで確認できるか、今後より大きな議論へ発展する予感があります。