山背大兄にも即位の野心はあったと思われますが、父親の教えに従ったものか、結局兵乱になることを嫌ったのでしょう。また、摩理勢事件の直前には、山背は蝦夷と何度も繰り返し意見交換をしています(その意見はすれ違いがちなのですが)。どうなろうと蝦夷の指示には従う、蝦夷の了解が得られなければ即位は望まない、というのが山背の基本的姿勢だったのでしょう。泊瀬王は、自身の宮に摩理勢を受け容れてはいますが、別に蝦夷に反対行動を取ったわけではなりません。事件は結局は摩理勢の勇み足であって、蝦夷に従った山背が孤立してゆくのは、皮肉な結果だったといわざるをえません。