「秦王国」という記述があるように、豊前は日本と対等の位置付けをされていたのでしょうか?

対馬壱岐、筑紫に対しても「国」としていますので、小国が連合しているような姿を思い浮かべていたのかも知れません。ヤマトがその盟主なのだということでしょうね。6〜7世紀段階でいえば、それは案外正鵠を射ている見方だったともいえるでしょう。