藤原京では「天子南面」の思想が充分実現できていなかったとのことですが、粟田真人以前の遣唐使・遣隋使も長安や洛陽をみていたと思うのですが?

つまり、都城制を導入して藤原京の建設を始める以前は、唐の長安城についても「自分たちが建設するもの」と思ってみてはいなかったのでしょうね。ですから、天智朝から大宝元年に至るまで遣唐使が中絶していた時期、中国都城の実態については圧倒的に情報が不足しており、『周礼』などの古典籍を分析してゆく形でプランを練らざるをえなかった(近年では、朝鮮の都城の知識が参照されたという見解も強くあります)。しかしその結果、出来上がった都城は理念的に偏ったうえに地形に制約され、充分な完成をみなかった。そういうことではないでしょうか。