作宝楼の存在が気になります。レジュメに「神仙境的位置づけ」云々とありますが、神社でもないのにそのような場所が作れるのでしょうか。

古代日本においては、古墳時代中期から水の祭祀が極めて重視されていました。聖なる山の麓の湧水点を祭祀したり、あるいは川などから濾過した浄水を邸宅に引き込み、外から遮断された空間で秘密の祭祀を行ったりしました。その方式は飛鳥時代以降の宮都にも受け継がれ、飛鳥寺西の須弥山の広場や、亀型石の園池などが作られています。『懐風藻』に採録された漢詩のなかには作宝楼を神仙境に模した表現もみられるので、同宅で催された詩宴は、神仙や神仏を招いて繰り広げられたのかも知れません(恐らく、神亀願経の世界観とも関係することでしょう)。また、これは憶測になりますが、上記の飛鳥の広場では、天皇に対する服属を制約する儀礼が行われており、同じ形式を持った儀礼は、天武・持統・皇子たちの吉野盟約、大友皇子と家臣たちの盟約、橘奈良麻呂と謀反の仲間たちの盟約でも確認できます。作宝楼の園池が、そうした「長屋王に対する誓約の場」と誤解され、失脚の一因になったとも考えられるでしょう。