『書紀』は中国王朝や新羅に向けて書かれたとのことですが、当時、それらの国々は日本をどう認識していたのでしょう。

中国王朝にとっては、やはり、情報のあまりない辺境の小国という認識でしょう。隋の時代には明らかに「蕃夷」であったわけですし、白村江以降正式な国交もなかったわけですから。一方新羅にとっては、東アジアにおける競合国として注意すべき存在であったと思われます。大宝2年に派遣された遣唐使は、当時の唐が則天武后によって「周」に改められていたことを知りませんでしたが、それは、新羅が外交を有利に進めるたうえで倭へ流す情報を意図的に制限していたためと考えられています。『日本書紀』は、そうした緊張関係の所産であったわけです。