前方後円墳は子宮の形とも取れるとのことですが、古墳時代にどのように子宮の形を知ったのですか。

前方後円墳を壺型墳と名づけうるとすれば、神仙思想によって意味づけされているわけですので、子宮の知識も中国から入ってきたものということになります。中国医学道教と密接に絡み合いながら発展してきましたので、生殖に関する知識も豊富に持っていました。しかし、縄文期のストーンサークルや住居の形式を考えると、縄文人にも子宮(という概念があったかどうかは別として)の形状はある程度認識できていたのではないかと思われます。妊婦姿の土偶をみれば、彼らが、女性の腹部を袋状のものと捉えていたのは明らかです。別に解剖しなくとも、大体の構造は想像できたのでしょう。