藤原氏の派閥の作り方はよく分かりましたが、一方の長屋王は何をしていたのでしょう。何も対抗措置をとらなかったのでしょうか(多数)。

残っている史料から判断すると、長屋王は策謀をめぐらせて藤原氏の勢力を削減しようとは考えていなかったようです。彼の派閥は確かに存在しましたが、皇親の長老たる舎人親王新田部親王は、彼の罪を糾問する側に回りました。彼に娘を嫁がせている阿倍氏、石川氏(蘇我氏)なども大きな動きはみせませんでした。恐らくは草壁―聖武直系ラインを維持することが、当時の宮廷の大勢の合意事項だったのでしょう。議政官を形成してい多治比、大伴なども唯々諾々と藤原氏に従ったわけではないでしょうが、一定の皇統ラインの維持が政治勢力の対立抗争を抑止すること、武智麻呂派の現実主義の方が政務運営上説得的であったことなどが大きなポイントになったと思われます。