草壁皇統が藤原氏と関係が強いという点が、よく分かりませんでした。

これは前提的な話なのですが、草壁皇統の維持と発展という政治目標は、草壁の母親である持統天皇藤原不比等との政治的協力のなかで実現されてきたものなのです。不比等の前半生には分からないことが多いのですが、31歳の折に従五位下判事という法曹関係の職で『書紀』に登場する以前、草壁のブレーンとして内舎人に補任されていたのではないかとの見方もあります。いずれにしろ、軽皇子文武天皇が即位する頃には朝廷・後宮に一定の力を行使しうるようになり、文武に娘宮子を入内させ首皇子聖武を得、草壁皇統維持の主体的立場になってゆくのです。光明皇后聖武の遺品を東大寺に献納した際のリスト『国家珍宝帳』には、黒作懸佩刀という宝物があり、「草壁皇子の佩刀だったものを不比等が与えられ、これを文武即位の際に不比等が文武に献じ、文武崩御に際し再び不比等に与えられ、不比等薨去に際して聖武に献じられた」との説明が付いています。どこまでが事実なのか難しい点もありますが、藤原氏と草壁皇統とが一体となって奈良王朝を運営してきた象徴ともいえるエピソードです。