天然痘が長屋王の祟りだと考えられたとのことですが、この頃すでに怨霊信仰などは一般的だったのでしょうか?

中国から怨霊信仰が将来され、それが一般化してゆくのは平安時代に入ってからです。『霊異記』が編纂されるのは平安初期、ちょうど早良親王の怨霊などが問題化してゆく時期と重なるので、長屋王の祟りの解釈はそれを反映してのことでしょう。しかし、『続紀』の天平2年(長屋王の変の翌年)の記事に、安芸国周防国死魂を妖祠する群衆が起こり、平城京でも春日山の麓付近で大規模な人民会集がみられたとあります。死者に何らかの威力があるという考え方は、日本列島でも縄文時代以降連続してみることができますから、変の直後に長屋王=怨霊という認識が皆無であったとはいいきれません。印象論的な言い方ですが、変の中心に位置したような人々が、何らかの後ろめたさを覚えていたことは想像に難くありません。とくに中国文化に精通していた四子は、天然痘の高熱に苦しみながら、自殺に追いやった長屋王の無念を考えていたかも知れません。