日本では「人が神になれない」という考えがあるといいますが、神道で祀られるということはどういう意味があるのでしょう。キリスト教でいう聖人崇拝と同じようなものでしょうか。

まず、「神」という言葉の定義をしっかり考えなくてはいけません。キリスト教の枠組みだけで「神」を論じるのは大きな間違いです。例えば神を、「人智を越えた力を持つ霊的存在」とするならば、日本にも「神になる」思想はあります。もともとは神仙思想の導入が契機でしょうが、古墳時代の首長霊祭祀などはその先駆的事例でしょう。『続紀』養老2年(718)4月乙亥条では、亡くなった筑後守道君首名を、その善政を慕った民衆たちが祠に祀ったとの記録があります。平安期以降に展開し靖国神社にゆきつく御霊信仰などは、その典型でしょう。後者は、やはり中国に起源を持つ「非業の死者は災禍なす霊的存在になる」という発想に起因しますが、結局神として祀られる点では同じことです。
一方で、列島には、原始から自然を神として信仰する万物霊魂論、汎神論的世界観が存在しました。8世紀の時点で存在した神社の大部分は、このような自然神です。しかし、仏教の人格神や神仙思想の影響を受け、これらも次第に人間的な存在へ変質してゆくのです。