光明立后は強引な気がします。朝廷内では反対意見が出なかったのでしょうか、また、元正太上天皇は賛成していたのでしょうか。

光明立后は、藤原氏腹の皇子を嫡流とすることを意味します。藤原氏の血を受けた首皇子光明子はともかく、元明や元正がなぜそのことを推進したのかどうかは分かりませんが、やはり持統天皇草壁皇子藤原不比等との関係が大きいのだろうと思われます。不比等は若い頃、草壁のブレーンのひとりであった可能性が高いのですが、その皇位継承の推進者として持統の信頼を得、やがて朝廷のなかで重きをなすようになっていったと考えられます。とくに軽皇子文武天皇の即位に関しては、氏族間の総意をまとめるのに大きな功績があったのでしょう。それが宮子の入内へ発展していったのだと考えられます。元明や元正は、そうした持統の意志を受け継ぎ遵守したものでしょう。当時、聖武の夫人には、光明の他には県犬養宿禰広刀自がいるに過ぎませんでした(どの時期かは微妙ですが、やがて藤原武智麻呂・房前も娘を入内させています。天平9年頃には、橘宿禰佐為の娘古那可智も入内しますが、やはり藤原・県犬養=橘2氏で構成されています)。他の王族を妃に当てるという選択は長屋王の変で排除されていましたので、強硬な反対意見は出なかった、反感はあったにしても予め抑えられていたものと思われます。