贈与や蕩尽によって象徴的な権力が発生するのは分かるのですが、それは多分に負債を感じる側の「感じ方」如何に関わっているのではないでしょうか。自然と人間との関係に当てはめたとき、少なくとも現代人にとって、どれだけ「負債を感じている」のか疑問に思います。

そのとおりですね。しかし問題は、実は負債を感じる側の「感じ方」にあるのではありません。その「感じ方」を生み出している、贈与の主体と客体との関係にあるのです。講義で説明したポトラッチに即していえば、贈与する側は、相手が負債の念を抱くと分かっているからこそ実行するのです。つまり、贈与という行為、負債という認識は、両者の同意のうえに成り立っているわけですね。自然環境と人間との関係をこの図式に当てはめてみると、人間が自然から生活の資材を得る際、自然からの了解を得る手続きが何も取られていないことが分かります。かつては、たとえ人間の側の自己正当化に過ぎないとしても、祭祀などの相応の手続きが実践されていました。場合によっては供犠という、交換が成立することもあったのです。しかし、現在はこちら側からのアクションはなく、資材の獲得は贈与ではなく奪取になってしまっている。そこには、負債の生じる余地はなくなってしまっているのです。