阿倍皇太子を正当化するために聖徳太子信仰を利用する、というあり方がよく理解できませんでした。 / 当時、聖徳太子に対する信仰はそれほど盛んだったのでしょうか。 / 太子の命日は2月22日で正しいのですか。

聖徳太子に対する信仰は、その関係寺院を通じて7世紀の後半には喧伝され始め、『日本書紀』の編纂・講読によって画期を迎えたと考えられます。仏教国家の後継者としての阿倍皇太子、それを支援する聖武や光明は、仏教を奉じる皇太子の先例として聖徳太子を位置づけ、法会を盛んに行うなかでその業績を盛んに喧伝し、阿倍の正当化に利用していったものと考えられます。いわば、阿倍のために聖徳太子信仰が活発化された、ということになるでしょうか。ちなみに2月22日という太子の命日は、法隆寺系の所伝でいわれているもので、『日本書紀』では2月5日となっています。四天王寺系でも異なる所伝がとられていたようです。