現在も宮内庁楽部に籍を置く多氏や東儀氏は、なぜ有名な「太」や「秦」の名字を名乗らなくなったのですか。

朝臣については、『日本書紀』の段階で「多」とも表記していました(他にも「意富」「於保」などがあります)ので、別段「太」が正式というわけではありませんでした。東儀は秦河勝の子孫を自称していますが、これは中世に河勝を芸能の祖とする伝承が生まれたためで(世阿弥の『風姿花伝』第四 神儀などに記載。聖徳太子より「六十六番の物まね」を授けられたと伝える)、当初から「秦」を名乗っていたものかどうかは分かりません。