ブリコラージュ的営為とは、鎌倉以降の中国文化の消化と再構築を指しているのですよね?

鋭いですね。そのとおりです。例えば鎌倉仏教の成立などでは、この問題が非常に大きく作用しています。例えば親鸞は、『大宝積経』巻第17/無量寿如来会第5-1の、「心或不堪常行施、広済貧窮免諸苦、利益世間使安楽、不成救世之法王」というくだりについて、本来ならば、「心、或は常に施を行ひ、広く貧窮を済ひて諸苦を免れしめ、世間を利益し安楽ならしめむことに堪えざれば、救世の法王と成らじ」と訓み、「心が、常に施を行ない、広く貧窮を救済し諸々の苦を免れさせ、世間を利益して安楽にさせることができなければ、救世の法王にはならない」という阿弥陀如来法蔵菩薩)の覚悟を読み取るべきところを、「心、或イハ常行ノ施ニ堪ヘザラムモノニ、広ク貧窮ヲ済イテ諸ノ苦ヲ免ラシメムト。世間ヲ利益シテ安楽ナラシメムト」と訓み、「心が常の布施行に堪えられない者には、広く貧窮を救済し諸々の苦を免れさせよう。世間を利益して安楽にさせよう」と、悪人正機の思想から如来の他力を示す文に読み替えているのです。これこそブリコラージュによる発明でしょう。