孝謙天皇が道鏡に入れ込んでしまったのは光明子らの影響があったのではないでしょうか。また、当時の医師の地位は僧侶と比較するとどの程度だったのか、気になります。

「入れ込んだ」のが客観的にどういうことなのかは考える必要がありますが、確かに、宮廷における内道場の位置、後宮女性たちと看病禅師との関係に、一定のラインが引かれていたとはいえるかも知れません。身分の上下については、例えば宮廷内における役割を考えてみますと、典薬寮の医師が従七位下、医博士が正七位下であったのに対し、僧綱は僧正が正五位相当、僧都が・律師は従五位相当でした。玄昉は僧正で内道場に入り、良弁は少僧都の立場で看病禅師を務めていますので、本来は相応の実績と評価がなければ宮中には出仕できなかったのでしょう。道鏡孝謙太上天皇の治療を行い、恵美押勝の乱が鎮圧されて後少僧都に補任されていますので、師である良弁の推薦があったか、いずれにしろ験力に定評があったのだと思われます。