「平城京が世界の中心である」という思想は、対外的にも発揮されたのでしょうか。

そうですね、とくに東大寺大仏の存在は重要でした。天平勝宝4年(752)6月丁酉には、来日した新羅使の金泰廉らが、一切経の納められた東大寺で大仏を礼拝しています。大仏の建設時には宇佐八幡が託宣を下し、諸神を率いて協力すると申し出た神仏習合の事例が確認されていますが、この神格は対蕃夷の性格を強く帯びており、天平9年(737)4月1日には「新羅无礼之状」が報告されています。以前にお話ししましたように、日本の古代国家は一種の中華国家を志向していましたが、東大寺大仏はそれを象徴・喧伝するモニュメントであったといえるでしょう。