説話や詞書の最後にある、飛倉の切れ端を神聖視する心性には、樹木信仰の影響があるのでしょうか。また、聖遺物崇拝自体には、民俗信仰の影響がありますか。

飛倉の切れ端については、まったくないとはいいきれませんが、樹木信仰のみを強調して語ることはできないでしょう。神聖さの起源が樹霊にあるのではなく、それが命蓮の奇跡譚に連なるという彼の法力にあるからです。恐らく倉が石造であっても、また粘土造であっても、その砂礫や土くれが神聖視されたはずです。なお聖遺物崇拝については、洋の東西を問わず民俗信仰の影響が強いと思われます。大体において、聖人とは支配的権威や土俗的信仰を批判して登場するものですが(キリストしかり、釈迦しかり)、聖遺物崇拝は、それを習俗の側に取り込む「反動的心性」であるといえるかも知れません。