尼公は従者を連れていたと思いますが、参籠の場面では姿がみえません。どうしたのでしょうか。

大仏と一対一の関係で繋がれるため、参籠は独りで行ったとするのが内的な解釈でしょう。物語の展開から考えると、参籠以降の場面は大仏対尼公、命蓮対尼公の構図で描いた方が間違いなく効果的で、そこへ従者が入ってくると読者の注意力が散漫になってしまう。そうした配慮からあえて描かなかった、と考えることもできるでしょう。