性的な夢の象徴として、「水」「脚」が出てきました。夢を描いた絵も残っていますが、これらのイメージは本当の夢そのままで出来ているのでしょうか。あるいは、ステレオタイプの表象であることはありませんか。

夢に政治性が表れる、夢が後の知識や利害関係によって表現しなおされる、という問題は確かにあります。しかし『蜻蛉日記』の場合、夢は最終的に出家をしてゆくまでの道標なので、宗教的な観点からある程度真実味をもって表現されているとみていいでしょう。ちなみに『石山寺縁起絵巻』は、参詣者を集めるための石山寺の政治的意図を反映していますし、あくまで『蜻蛉日記』を資料に表現したものなので、「夢そのまま」と言い難い部分もあるでしょう。脚に水をかけられるという体験のヴィジュアルが、道綱母の主観においてどのように成り立っていたのかは、なかなか歴史学では復原しがたい問題かも知れません。