清涼殿の廂部の昆明池障子ですが、このように細部まで描けたのは、やはり後白河院のサロンに属する絵師だからでしょうか。

常磐光長は、最高位従四位下・刑部少輔で昇殿はできました。それ以前は宮廷の画所で絵画制作に住持していたものと思われます。『年中行事絵巻』も光長の作品といわれていますので、彼のもとには多くの資料があったでしょうし、また肉眼で確認することもできたでしょう。