九相図をみて無常観をかみしめていた当時の人々、とくに庶民の間には、プリミティヴな死者との別れの儀式、あるいは情感のようなものはあったのでしょうか。死んで抜け殻となった死体への執着があったからこその九相図なのですか?

儒教的世界観では、本来、身体は祖先の遺体なので損壊してはならないという思考が顕著でした。しかし現在の中国、韓国における整形手術の流行をみると、かかる思想のありようは表層的であり、結局人々に「身体化」するような形で浸透してはいなかったのかも分かりません。それに対して日本列島では、未だに「五体満足」への執着が強く、それ故に障害者差別が根強かったり、臓器移植への抵抗感が強かったりするようです。ぼくは現世主義の表れだろうと考えていますが、それゆえに死体に対する執着も強かったに違いありません。九相図のようなものが流行したのは、そうした強固な執着を断ちきるための思想やツールが必要であったこと、執着ゆえに無常観への共感が得られやすかったことなどが原因なのでしょう。