出雲の荒神谷遺跡等々の青銅器埋納も、共同体祭祀から首長祭祀への移り変わりのなかで起こったことと考えてよいのでしょうか。

荒神谷の埋納自体は、必ずしも青銅器祭祀の廃絶と関連付けなくてもよいようです。とにかく大量の青銅器を埋納することが、共同体の勢力を誇示することに繋がったのでしょう。しかし、出雲ではそれからしばらくして、中期末頃には青銅器祭祀が廃絶します。問題はその後に墳丘墓が誕生するまでですが、約100年ほどタイムラグが存在するのです。出雲では、共同体の青銅器祭祀から墳墓の首長祭祀へと、必ずしもスムーズに移行したわけではないようです。廃絶の理由については、指導者層による意図的なものとも、近畿や北九州からの青銅器供給が止まったためともいわれていますが、未だ充分な定説がありません。上記のタイムラグの時期には、青銅器に鋳造されていた文様を持った土器が出現していますので、両者を繋ぐ何らかの過渡期的な祭祀が行われていたようです。