大化前後から記紀成立に至るくらいまで、王権にとっての難波の位置づけや、ヤマト王権にとってどの時期から難波が大きな役割を果たし始めたか知りたい。

ヤマト王権にとって、難波は外港としての重要性を持ち続けます。孝徳朝や聖武朝の難波宮も、外交や交通との関係においてその機能を発揮していました。ただし、難波津が整備されるのは5〜6世紀の間で、それ以前はやや南方の紀ノ川河口付近が外港の役割を果たしていました。対外交渉や対外軍事についても、紀氏の人々の活躍のあったことが、『日本書紀』に記されています。その後、7世紀頃からの朝鮮三国・中国王朝との外交活発化に伴って、難波は外交使節を迎接する玄関口に位置づけられてゆきます。孝徳天皇天武天皇が使用した第一次難波宮は、そうした性格の強い宮殿です。天武が、後に藤原宮となる大規模な宮殿の造営に着手するのは、難波宮が火災で焼失し、その外交・政務に関わる機能と、飛鳥浄御原宮天皇の住居としての機能とを併せ持つ施設を建築しようとしたものと考えられています。以降、聖武朝に難波宮が再建されるまで、難波の役割は難波津、すなわち外港としてそれが中心になってゆきます。