倭国の軍事力は、実際に朝鮮三国にとって援助や脅威になるほどのものだったのですか? / 百済は倭と中国との間を仲介して、どのようなメリットがあったのでしょうか。 / なぜ中国や朝鮮は、日本へ攻めてこなかったのでしょうか。

実際に「好太王碑文」をみますと、倭が半島に出兵して百済新羅支配下に置いているとの文言が出てきます。これは高句麗の立場を正当化するための碑文ですので、ややバイアスのかかっている点に注意しなければなりませんが、それでも倭が三国の関係を変化させるだけの軍事力を持っていたことは確かでしょう。海外出兵は、倭にとっても国内を統括するために必要な政策でしたので、加羅などと連携しながらある程度恒常的に軍兵を動員できる態勢を整えていたものと思われます。また、講義でもお話ししたとおり、加羅百済は、倭にとって中国王朝へのルートとして重要でした。一方の百済加羅も、新羅高句麗と対立するなかで、倭国の軍事的圧力を利用していたものと考えられます。なお、彼らが倭国へ攻めてこなかったのは、隣接する敵国を抱えている情況で、海を越えて軍兵を送り込むメリットがまったくなかったためでしょう。宋王朝もしかりです。大きなリスクを抱え込んで海の向こうを経略するよりも(うまく侵略に成功したとして、その領土を維持するのにもかなりの兵力・財力を要します)、うまく懐柔して外交的に利用する方が、よほど意味があったものと推測されます。