藤原京が碁盤目状に分割された都市なのは、統一された単位があったからですか。

藤原京の建設に際しては、その5年前に頒下された飛鳥浄御原令が重要です。律令国家の建設へ向けて、都城の整備・律令の編纂は並行して進められてきましたので、度量衡から宅地班給の規定まで、基本となる諸制度は完成していたと思われます。しかし、藤原京の構想自体が、まずは難波宮の朝堂院と浄御原宮の大極殿を併せ持つ「新城」として、続いて中国的都城に拡充された「新益京」へと、段階的に大きな方向転換を繰り返しつつ実現していったものなので、設計自体や実際の建築にさまざまな問題を残す結果になってしまったのだと考えられます。