平城京への移転がなぜ行われたのか、よく分かりませんでした。

これは奈良時代のテーマですが、最も大きな要因は、中国と対等に付き合うべく中国的都城を建築したつもりで、意気揚々と大宝の遣唐使を派遣したところ、現実の中国都城藤原京とはまったく異なるという事態が発覚したためです。遣唐使の帰国後も、しばらく藤原京の整備や拡充を続けて何とか対応しようとするのですが、やはり間に合わず、わずか15年ほどで放棄するに至るのです。