子産の神話=歴史に関する知識の豊富さは分かりましたが、彼は卜官とは無関係な人物だったのでしょうか?

子産は、公孫僑との諱からも分かるとおり、鄭国の宗族(君主の一族)でした。子産の父親が鄭公の子(公子)、彼はその子すなわち鄭公の孫(公孫)に当たるわけです。ゆえに、史官や卜官の一族ではありませんでした。しかしその家柄から、当時の卿・大夫らが共有していた神話=歴史には、常時アクセスできる環境にあったと思われます。後に彼は、中国最古の成文法を作成し青銅器に鋳込んでゆきますが、『周礼』によれば史官・祝官には礼の監督という機能もあり、子産がやはり史・卜・祝の文化に精通していたことをうかがわせます(もちろん、それ自体が燕国などの史官による演出かも知れませんが)。日本古代でいえば、藤原不比等大宝律令編纂に尽力しており、朝廷への初任官が判事という法律職であったことが判明しています。やはり、史と礼は切り離せない性質のものなのでしょう。