明治のなかで作られた言葉に美意識を感じる必要はないといえばそれは否定する気はないものの、いまさら古語で話すわけにもいきませんし、であれば明治以来の言葉を基準に、若者言葉を乱れていると表現することが間違っているとは思えません。歴史をみわたすうえで偏見に囚われるのは問題ですが、そこにはすでに、無色であることに固執する価値観が現れることを忘れてはならないと思います。

うーん、どうも誤解があるようですね。まず、私は「無色であること」を求めているのはありません。機会があれば、歴史学の方法を批判した私の論文を読んでいただきたいと思いますが、私は「無色であることの標榜」をずっと批判してきた人間です。歴史学/歴史研究の関係について触れた講義でもそのことを主張していますので、見直してみてください。私がいいたいのは、「色が付いていることに自覚的であれ」というまったく逆のことです。また言葉の問題についても、明治に作られたから批判しているのではありません。近代国家が、標準語として恣意的に作り出した言語だからです。これが「スタンダード」に設定されることによって、標準語よりよほど日本列島の環境や伝統に根ざしている言葉が否定され、また方言などがあたかも価値的に低いかのような錯覚が生まれてきました。東京の山の手言葉がモチーフになっていますので、中央指向的なベクトルを強く持つのです。標準語には、歴史的な正当性はほとんどありません。それを価値の基準に据えるなどまったく空虚なことです。