自分の罪業を正当化しようという試みは、神が我々の罪を贖ってくれるという思想において達成され、我々は神に負債を負っていると考え始めるに至るのではないでしょうか。

もちろん、自己の罪業の正当化と、神々による救済の考え方は繋がっていますね。詳しくは、私の論文「負債の表現」(『アジア遊学』143、2011年)を参照していただきたいのですが、人間の感じる負債の念は、生存の贈与のレベルと存在の贈与のレベルとで相違があるように思います。前者は、自分の生存の条件が自然環境もしくは神から保証されている、贈与されているという考え方で、後者は、自らの存在自体が神や自然環境から贈与されたものだとする認識です。キリスト教のように、「神が人間の原罪を贖ってくれた」とする発想は、後者の「存在の贈与」を基盤に発達してくるようです。