個人的な意見ですが、料理をするということが、自ら狩猟=殺生を実践することの代替になるのではないかと感じます。「命をいただく」ことへの意識は、食材に触ることで正しい感覚を養いうるのではないでしょうか。

確かに、生物個体としての原型を留めている「食材」を料理することは、生命について考えるうえでの貴重な機会になるでしょう。日本文化においては、四条流の庖丁儀式をはじめとして、料理を行ううえでの儀式作法が存在する場合もあります。これは、料理が完了するまで「食材」には直接手を触れずに行われるので、殺生の罪業や穢れを意識し回避するための方策でしょうが、逆にいえば、生物を食べることに対する後ろめたさを明確に反映しているともいえます。現代文明は、殺生から料理までのプロセスを他の専業者に仮託し、食事する快楽のみを提供しようとするので、倫理的にもろもろの問題が発生してしまうのでしょう。