今回の質問は、私の方から回答をしない方がよいものばかりでした。しかし、受講者で共有しておくべき意見が多くありましたので、ここに掲示しておきます。歴史の物語り論、実証主義の意味についても質問がありましたが、これは講義のなかで解説してゆきます。

歴史学・歴史理論は、「歴史の繰り返し」を克服するためのものだろうか。「歴史の繰り返し」は、多元主義的論理によって本当に克服しうるものか。多元主義の立場に立つとして、では「決断」はいつ下すのか。「決断」を下すという行為は、やや「暴力的な立場」に立つ、ということを意味するかもしれない。「決断」を下すということは、それとは違う立場を取る意見を、少なくない数、踏みにじるという行為であるからだ。しかしだからといって、多元主義に基づき、「決断」を下すことを避け続けてよいのだろうか。われわれは、「決断」を下さずして前に進めるか。
○過去の国家の罪過に責任を負う話がありました。そこで極端な話、戦争や人殺しはひどいことだという概念がもし一度も過去に存在していなければ、現代の人々は、それらを罪過と理解することはないだろうと感じました。これらの事象がひどいとされるのは倫理観によるものだと思われますが、どのような過程を辿り決まっていったのでしょうか?感情論から発するものなのでしょうか?
○「背負うべき…は何か」という発問の前に、「いかにして背負いうるか」ということを問うべきではないだろうか。なぜなら、「私に他者の責任が負えるか」という倫理学上の重要な問題が横たわっているからである。この問題を議論しないのなら、よくききなれた批判、「一体何様のつもりなのか」を食らうことになり、学的発展はありえないだろう。
○事実をめぐる問題ではなくて倫理をめぐるものになっているということでしたが、それだと歴史小説と同じものになってしまうのではないかと思いました。歴史や史料を批判的に見ていくことは必要だと思います。でも終着点として、事実(歴史的な)が放棄されているのはどうなのかと思いましたし、本人たちは問題だと感じていないのかと思いました。
○加藤/高橋の論争において、一定の着地点として「過去の責任を客観的に認め、過去からの連続体である国家にその遂行を求める」とあるが、国家の運営が人間による以上、直接的に無関係な人間が過去へ責任を取ることになってしまう。これは本当に責任を取ったといえるのか、いまいちよくわからなかった。