言語についての話で、ウィトゲンシュタインの言語ゲームのことを思い出した。人間は言葉によって世界を認識するが、その言語を定義づけるためのルールも必要だ。そのルールは言語で説明できるものではなく、個人の認識に基づくもので、結局認識が先立つのではないか、と思ったが分からなくなりました…。

そうですね、先後関係で考えると分からなくなりますね。だいたい、言語を用いない認識の状態は、言語を使用できる状況にある我々では、なかなか想像することが難しい。言語を単に日本語、英語、中国語…といった分節言語で考えるのではなく、ランガージュ(言語能力)を基底にしたラング(構造)・パロール(発話)の相関関係の相対として捉えてゆくと、その仕組みは認識をほぼ完全に支配しているといっていいでしょう。我々は日常の無意識のなかで、言語=分節された意味を介して、世界のありとあらゆるものを創り出しています。もし認識から言語が抜け落ちてしまったら、私たちはその複雑性によって生み出された家、町、都市、世界を、これまでと同様な形では生きてゆくことができないでしょう。それは、石やガラス、金属、プラスチックで出来たジャングルのなかを、動物として生きることと同義なのかも知れません。