四隅突出型墳丘墓などには、何か祭祀的な意味はなかったのでしょうか。

高坏や壺などが出土していますので、何らかの墓前祭祀は行われていたと思われます。それが単なる喪葬儀礼の一種なのか、あるいは神人共食の直会なのか。詳しいことは判明していません。しかし、プロジェクターで映した西谷3号墳からは、吉備の特殊器台・特殊壺なども混入して出土していることから、葬られている「王」が周辺の流通を掌握していたことは確かであり、また祭祀がその性格を体現するものであったことも間違いないかと考えます。