古墳時代の壁画からは、現在と同じような家族意識を感じるのですが、それにしては黄泉国神話が冷たすぎるような気もします。このギャップはどう理解すればよいのでしょうか。 / 黄泉国神話は、横穴式石室で死体をみる経験が増えたことが背景と仰っていましたが、現代よりみなれている死体のことをあらためて神話にする必要があるのですか。

神話は、必ずしもすべてがその時代の現実、大多数の考え方・感じ方を反映しているとは限りません。神話を分析する際には、その主題は何なのかを考える必要があります。黄泉国神話の場合、桃が神聖視される理由、生き物は必ず死ぬが生命自体が全滅はしない理由などが説明されていますが、最も根本的なのは生者と死者をいかに分離させるか、いわば喪葬方法の開示・伝承とみてよいでしょう。例えば、近年日本の神話研究にも応用されている中国少数民族の神話、喪葬儀礼のなかには、シャーマンが死者に対して生者と別れることを懇々と説いて死者の国へ案内してゆき、さまざまに言い訳をしながらとって返してくる内容の経典をみることができます。その構造は、黄泉国神話と非常に近いものです。この神話自体が、イザナギが千引の石の前で述べたコトドワタシのように、死者と決別する目的の祭文であったのだとも考えられます。