我々の用いる私的言語・私秘的言語は、実証史学の枠組みからは抜け落ちてしまうものと思います。そこには「徴候」的要素がみられる、と指摘した知人がいたのですが、もし歴史学がそのようなものについて何かしらの記述をしようと試みた場合、どのような方法があるでしょうか。

カルロ・ギンズブルグの邦訳書に、『神話・寓意・徴候』(せりか書房、1988年)があり、そのなかに「徴候」という興味深い論文が収められています。ギンズブルグはそのなかで、何でもないような日常の記録に「徴候」を認め、重大な全体像を構築してゆく歴史家の仕事を、医師や探偵に準えて説明しています。しかし問題は、「その歴史家」になぜ「その徴候」が発見しうるかということでしょう。その点、ギンズブルグは詳しく論じていませんが、参考になるのはフロイトの方法です。フロイトが患者を臨床分析するときの方法は極めて動態的で、相手の話のなかから自己の問題を読み解き、その自己分析を通じて相手の問題の深みへ迫ってゆく、いうなれば再帰的な態度が貫かれています。例えば著名な「鼠男」の症例分析では、そのプロセスを通じて自分自身の母に対するトラウマ、亡くなった弟に対するアンビバレンツな感情を発見してゆくのです。歴史学者においても、対象との間に、同様の態度が要請されるべきかもしれません。