『書紀』が、対外的に天皇のありようを誇張して描くことに、具体的にはどのような利点があったのでしょうか。

『書紀』は中国王朝や朝鮮三国を意識して書かれていることは確かですが、実際上その記述の視野に収められていたのは、むしろヤマト王権を構成する諸豪族、地方諸勢力、そして国家を支える官僚たちであったと考えられます。『書紀』は成立後間もなくして、官僚たちを対象に講義が行われます。それは、律令国家としての「日本」の歴史であり、それに結集する諸勢力のアイデンティティーをなすものであって、これまでの「倭」国との決別を志向したのだといえるかもしれません。後にお話ししますが、私は、大王/天皇の内実における相違は、自然神を超越する権威を持ちえているかどうかだと考えています(それは、天武・持統朝に意図的に構築されます)。猪を踏み殺す雄略のありようは、それ自体「神殺し」を体現しているのだといえるでしょう。