冠位十二階が定められたということは、氏族制のもとではしっかりした「礼」が存在しなかったということでしょうか。

三国志』魏書/東夷伝倭人条などをみますと、邪馬台国には身分が存在しており、下級の者が上級の者に対してとるべき作法が決められていたようです。以前に講義でもお話ししたとおり、上記の記述には陳寿の政治的視線がみてとれますので、どれほど事実性があるかは分かりません。しかし、階級のある社会を正常に運営してゆくためには、生活のあり方に何らかの格差を付ける習俗は存在したはずです。推古朝の改革は、それをあくまで「中国風」に作り変えてゆく、ということであったと思われます。