他者表象の問題について考えてみたとき、歴史をみるという行為の究極的な目論見は、「自分」を理解するためなのか、「他者」を理解するためなのか、判断がつかない。先生はどう思われますか。

上の方の質問にも通じますが、自分/他者を二極分化して考えるのが問題なのだろうと思います。他者を理解することが、結局は自分を理解することになる。逆に、自分を理解することによって、他者への理解も深まってゆく。以前、フロイトのところで少し触れましたが、「再帰性」という考え方が、最も重要なのだろうと思います。