「見るなの禁」。なぜ「見る」ことがタブーとして作られる話が多いのでしょうか。視覚が、何か特別な意味を持っていたのでしょうか。

前近代においては、現在以上に五感を研ぎ澄ませた認識が行われていましたが、やはりそのなかでも、「みる」ことは特権的な地位を与えられていたようです。「みる」ことが世界を創り出す。ゆえに、みる/みられることによって、不用意に相手に影響を与える/相手から影響を受けることを、強く忌む傾向が生まれたのです。ケガレがみる/みられることで伝染したり、呪われたり祟られたりすると信じられたわけです。「見るなの禁」もそうした心性のなかから、当初は自分を守るために生まれてきたタブーなのでしょう。神話や昔話においては、見るなの禁を破ると、見られた他者は異界へと切り離され、世界は断絶してしまいます。これはふたつの世界の境界を明確に定め、此界を日常の状態へ復帰させる呪術ともいいうるでしょう。それを悲劇として語るようになる前近代の心性に、恐れながらも邂逅を求めてしまう死者への気持ち、できれば一緒にいたいがいられないという生者の葛藤が表れているのかもしれません。