蝦夷の人々は、ヤマト王権に制圧される以前に、他の国々と関わったりしていないのでしょうか。また、アイヌの人々の存在を、当時の朝廷は認識していたのでしょうか。

北方の民族とは様々に交流、交易していた可能性があります。ただし、この時点では東北・北海道の地域社会も幾つかに分裂しており、統一的王権の形で外交するという段階には達していません。『書紀』斉明天皇4年(658)是歳条には、「越国守阿部引田臣比羅夫、粛慎を討ち、生羆二、羆皮七十枚を献る」とあり、征討に赴いた阿倍比羅夫が、戦利品として羆・羆皮を持ち帰ったことが記されています。のち、ヤマト王権律令国家は東北の物産に注目して、これを渤海交易などの輸出品としても使用してゆきます。王権の利益になるかならないかという範囲で、東北・北海道文化の把握も一定度はなされていたでしょう。