自分たちが死に追いやった長屋王の邸宅跡に住むなんて、祟られるとは思わなかったのだろうか。

まず「祟り」という認識自体が、8世紀の半ば頃にようやく成り立ってくるということを考えなければなりません。タタリはもともと神がタツ、現れるということで、神の意志の顕現をのみ意味していました。現在のようにマイナスの要素が強くなるのは、殷王朝時代から用いられる「祟」、すなわち王に災禍をなす神霊を表す文字の訓みに当てられてからです。また、死者が怨霊と化して災禍をなすという考え方も、同時期、志怪小説や仏教経典、それらに引用された道教経典などを通じて一般化してゆきます。しかし、非業の死者が災禍をなすという見方は、中国では戦国時代にまで遡れますので、日本にも早い時期になかったとはいえません。ただし、現在の私たちが考えるよりは、強迫観念として弱かったのではないかと考えられます。