伝承板蓋宮跡で、飛鳥I期・II期など重層的な建築が明らかになっていますが、なぜ頻繁に建物を移したのでしょうか。
奈良時代までは遺制が残り続けますが、七世紀までの朝廷には一代一宮の慣習(歴代遷宮制)が存在し、大王が即位すると新しい宮で政治を運営することが繰り返されてきたのです。それは世界が一新されることを象徴していますが、歴史的には、王統・王家の定まっていなかったヤマト王権の黎明期のあり方を反映しているのではないかと思われます。宮と王とが同一視され、大王が宮号で呼ばれたこととも関連するでしょう。飛鳥時代に入ると、山や丘陵に囲まれた狭隘な地域に王権の中心が置かれ、宮の造営される場所も限定されてくるので、その象徴的意味も形骸化してきます。しかし、藤原京、平城京と都城制度が導入されて以降も、宮城内では建物の建て替えが行われ続けているので、この慣習を支えている意識はよほど強固であったのだと思われます。