『書紀』では、崇峻殺害は馬子の被害妄想であったように思われますが、事件後、馬子が危機的立場に立たされることはなかったのでしょうか。 / なぜ馬子は、擁立までした崇峻を簡単に殺害してしまったのですか。

『書紀』の記述だけが事実を伝えている、というわけではないでしょうね。現実にはいろいろ複雑な背景があり、改新政府の史観を受け継いでいる『書紀』は、蘇我氏の王権に対する行為を「悪辣」に描写しますので、あたかもすべての非が馬子にあるように叙述しているのでしょう。まず、大きな背景としては、授業でもお話ししたとおり、6世紀の王権には未だ王位継承に関する実力重視の余韻が残っており、それに関して暴力や紛争の発生する気風は充分にあったということは認識すべきです。ちょうど、高句麗の泉蓋蘇文が、王や邪魔になる家臣を殺戮して行政権・軍事権を一手に掌握したように、この頃の馬子はようやく対立する物部勢力を排除し、朝廷に君臨しつつあった情況でした。その戦争は王権の力自体をも弱めたと考えられますが、隋王朝の脅威が半島に影響を投げかけていた時期、倭では強力な求心性をもって政権の運営されてゆく必要があったでしょう。ところが、それを見越して王位に擁立したはずの泊瀬部=崇峻は、次第に馬子のコントロールから独立しようとしていた。それはまた、当時の他の豪族たちの望むところでもなかったと思われます。崇峻暗殺後に大きな混乱が起きていなかったらしいことからしても、この事件は、支配者層の合意事項だったのではないでしょうか(奈良時代長屋王の変もそうでした)。馬子としては、早急にこれを排除して、一致団結した態勢を整える必要があったのです。