教科書的叙述の問題性については、誰しもが考えることと思います。それなのになぜ、日本は「単語だけの記憶」といった教育法を続けているのでしょうか。

実際の教育事情は学校でそれぞれ異なると思いますが、ひとつはやはり、国民国家による国民「生産」方法としての歴史教育のあり方にあると思います。文科省などの最近の傾向では、一方では思考型の歴史教育の必要性を喧伝していながら、一方では政府の公式見解を盛り込もうとしており、実質的には思考の介入を許さない、政府が望む「事実」を教え込もうとする傾向が強くなっています。これは日本だけでなく、国民国家というシステムの宿命のようなところがありますが、この点を自覚的に是正しようとする意志があるかないかは国によって異なり、残念ながら現在の日本は国家的志向が強いといえるでしょう。もうひとつは、やはり中高の教員の置かれている環境が苛酷である、ということでしょう。思考型の授業を展開してゆくためには、指導要領に沿った記憶型の授業より綿密な準備が必要であり、また授業の方向を調整しつつ生徒の育成を図ってゆく教員の指導力も重要です。現在の教員には、授業業務以外にもさまざまな仕事が課されて余裕がなく、多様化する生徒のありようや保護者への対応で身心をすり減らしている場合も多い。また、やはり記憶型が主流を占めている(こちらは変容しつつありますが)大学入試との関係もあります。思考型の授業を浸透・普及させてゆくためには、教育システム全体の改善を図ってゆかなければならないのです。